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佐助豚、その道のり

佐助豚の始まり

久慈ファームの所在地である岩手県二戸市は、岩手県内陸部の最北端に位置する人口およそ3万人のまち。東北有数のヒメボタルの生息地・折爪岳(おりづめだけ)をはじめとする山々に囲まれ、中心部を流れる馬淵川(まべちがわ)沿いに市街地が広がり、山あいを縫うように集落が点在しています。

「折爪三元豚 佐助」を手がける「久慈ファーム」は、この自然豊かな場所で親子3代にわたり養豚を営んできました。

初代である久慈佐助が兼業農家として養豚を始めたのは1950年頃。戦後の食料難が好転し、食用としての豚の需要も右肩上がりに増え始めた時期でした。

「おいしい豚肉」を作る。

当時は農家などの敷地で数頭~数十頭を飼育する小規模養豚が主流で、二戸でも副業として豚を飼う人は少なくありませんでした。

その頃は野菜くずや残飯を餌として与えていたし、飼育方法も今のように確立されていませんでした。『おいしい豚肉をつくる』というよりも“豚肉になればいい”っていう感じだったんじゃないか…と、二代目の周平(現久慈ファーム会長)は語りました。

物心ついたときから豚を育てる父親の背中を見てきた周平は、20代のとき「専業で養豚をやろう」と決めました。それが1970年代初頭のこと。

養豚を家業にした周平は、二戸市に隣接する軽米町に豚舎を新築移転。頭数を増やし規模を拡大するとともに“品質の向上”つまり「おいしい豚肉」をつくることにも取り組み始めました。

さまざまな品種の豚を飼育し、品種の掛け合わせや与える飼料の配合も検証。試してみた豚は10品種以上。食味だけでなく“飼育のしやすさ”繁殖性の高さも考えなければなりません。

ひとつのパターンの検証に3年かかり、あらゆる組み合わせを試すのに20年もの歳月を要しました。そんな試行錯誤の末、周平さんが「これがいちばんおいしい」と確信したのが、ランドレースと大ヨークシャーから生まれたメスとデュロックのオスの掛け合わせ。

のちに「折爪三元豚 佐助(佐助豚)」と呼ばれる豚肉は、こうして誕生しました。

「ブランド化」で幹を太く

2代目が20年かけてつくりだした「おいしい豚」。

しかし当初は他業者の豚と同じように買い取られて加工され、スーパー等で「名もなき豚」として流通されていました。

それをブランド化できたのは、代表取締役社長である3代目・剛志が導入した「自社での加工・販売」のシステムです。

肥育した豚を加工業者に売ってしまえば、養豚業者の仕事はここまで、というのが従来のしくみでした。価格も買い手の都合によって変動するため、だいぶ値が下がるときもあります。

同じように育てた命なのにそれはおかしい。その思いから、自分たちが販売力をつけることで、命の価値を安定して供給することが出来るようになりました。

販売先を飲食店や産直に限定し、流通業者とのバッティングを避けることで直接販売も可能に。

生産から販売まで自分たちが責任を持つ。そんな思いとともに生まれたこの豚肉を、久慈家の養豚のルーツである祖父の名前をとり「折爪三元豚 佐助」と名付けました。

佐助豚で、笑顔をつくりたい。

親子三代で紡いできた大切な佐助豚を通じて、食べてくれる方、調理してくれる方、自社の社員、その家族。佐助豚に関わる全ての人が笑顔になれる、そんな価値を届けられるように、次の世代へとバトンをつなげて、これからも尽力して参ります。